大久保長安について
今日は八王子市にゆかりのある偉人である、大久保長安について書いてみようと思います。
大久保長安(ながやす/ちょうあん)は1500年代、戦国時代から江戸時代初期を生きた武将である。
猿楽師の次男として生まれ、縁あって家族ともども武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになる。
家族の中で長安は信玄にその力量を見出され、猿楽師ではなく家臣として登用された。
武田信玄没後は、その子勝頼に仕えるが、1582年に織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征討)によって武田家は滅亡する。
武田家が滅んだ後、長安は徳川家康にその才覚を見出され家臣として仕えるようになる。
長安が八王子に縁を持つようになるのは、家康の家臣時代のことである。
1591年に長安は家康から武蔵国八王子を与えられ、八王子に入る。八王子に入った長安は陣屋を置き、宿場の発展に努め、浅川の堤防工事を行った。
また、八王子の街整備を行い、甲州街道の整備や八王子千人同心という下級武士組織も管轄した。
この八王子千人同心は関ヶ原の戦いへの参陣や交代で日光東照宮を警備する日光勤番など多面で活躍した。
この日光勤番などの縁から現在八王子市は日光市と姉妹都市を締結している。
また、石見銀山と伊豆金山の奉行、佐渡の代官として各地の金銀山の増産に成果をあげ、その才能を発揮した。
その死後、家康に生前の不正の疑いをかけられ、財産は没収、残された子供7人も死罪となってしまいました。家康の疑いが真実だったかは明らかになっておらず、長安の優れた才能、全国各地の鉱山開発等で蓄えた多くの財産、キリシタンとの接近が家康の疑念を生み、また恐れさせたという説もある。
大久保長安は学校の教科書などで強く取り上げられるような人物までいってはないかもしれないが、八王子に大きく貢献した偉人であることは間違いない。
先人たちに感謝して、日々を過ごしていきたいと思う今日このごろである。